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チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

C. Nam-joo (2016). KIM JIYOUNG BORN IN 1982. Seoul: Minumsa Publishing Co.  
(C. ナムジュ 齋藤 真理子(訳)(2018).82年生まれ、キム・ジヨン 筑摩書房

 

1. はじめに

 本記事では,チョ・ナムジュ(斎藤真理子訳)『82年生まれ、キム・ジヨン筑摩書房,2018の内容について考察する。これは韓国でベストセラーとなったフェミニズム小説である。
 主人公であるキム・ジヨンは,2015年の秋に「他人に憑依される」という奇妙な病気を発症する。そこで,ジヨンの夫が精神科医に相談し,ジヨンがカウンセリングを受けることになった。小説の大部分は,精神科医が書いたカウンセリングの記録の体裁を取っている。この記録では,ジヨンのこれまでの人生――1982年に生まれてから,2015年までにかけて――が書かれている。小説の終章である「二〇一六年」では,一転,精神科医の身辺についての内容になる。
 文章は淡々としたレポート調であり,小説的な仕掛けは,上に書いたことでほとんど全て言い表されてしまう。逆に言えば,筆者はこの部分だけは意識的に残した。そこで本論では,この仕掛けについて考察を試みる。

2. 本論

 まず,「他人に憑依される」というのは何を意味しているのだろうか。訳者・斎藤によると,1982年に出生した女児の名前で最も多かったのが「キム・ジヨン」であるという。ここから,ジヨンという登場人物は,この世代の女性を代表する役割を担わされていることが分かる。ジヨンに憑依するのは,彼女の身近な女性であった。このことから,ジヨンの身体を通じて,女性たちの思い――あるいは呪い――が吐出されている,と私は考える。その思いは,精神科医を当惑させ,さらに小説を通じて世の男性を困惑させる。あるいは社会の中心から疎外されたその他の性の人々――特に女性――は,物語に吸い込まれ,ジヨンと一体となり,ジヨンの体験に深く共感する。
 物語では,ジヨンの症状に対する具体的な処方箋はない。それは,彼女の「症状」が,彼女がこの社会において女性として生まれてきたことに起因するさまざまな経験――男性がその他の性を疎外する社会の構造によって引き起こされているからである。そのことをアイロニカルに示すのが終章である。
 精神科医は40代の男性である。彼はジヨンの体験について「まるで考えもしなかった世界」(162頁)だと述べる。しかし彼は,彼自身の特別な体験により,そのような世界があることをすでに知っていた,と続ける。そして話は,彼の妻が教授をあきらめ,ついには仕事を辞めていったことに移っていく。
 物語の終わりに,女性のカウンセラーが精神科医のもとにやってくる。彼女は精神科医に仕事を辞めることを伝える。精神科医は,彼女が出産と子育てのために辞めることを,残念に思いつつも,歓迎する。そして彼女について,「顔は上品できれいだし,服装もきちんとしてかわいい。着たてもいいし,よく気がつく。私が好きなコーヒーのブレンドや,エスプレッソ量もちゃんと覚えていて,買ってきたりする」(167頁)と回想する。そんな彼女の患者の多くが,彼女の退職をきっかけにカウンセリングをやめてしまったことについて,精神科医は「いくら良い人でも,育児の問題を抱えた女性スタッフはいろいろと難しい。後任には未婚の人を探さなくては……」(167頁)と考える。
 このエピソードは2つの点で皮肉である。1つ目は,ジヨンをカウンセリングしてなお,自分の歪んだジェンダー観に無自覚な点である。美醜や,性的役割への貢献で評価する男性が,ジヨンを苦しめてきたにもかかわらず,精神科医はそれと全く同じ轍を踏んでおきながら,それに無自覚である。ジヨンの就職差別の体験を聞きながら,採用にあたって女性スタッフに対してネガティブな感情を持っている。
 2つ目は,自分自身はなにも理解していないのに,彼の妻の経験を知っていることを理由に,自分を「普通の四十代男性」(162頁)ではないと考えている点である。精神科医は,女性のカウンセラーが辞めるときに,出産と子育てを理由に辞めると解釈するが,実はそのような発言は彼女からはない。精神科医の妻の場合,精神科医が多忙を理由に子育てを手伝わず,なんとか子育てをしている中で,子供の担任から「お母さんがそばにいてあげてください」(164頁)と言われたので仕事を辞めざるを得なかった。それにもかかわらず精神科医は,女性カウンセラーに対して仕事量を軽くしようと配慮もせず,そればかりか通常業務に加えてコーヒーを給仕させるなどしていた。女性カウンセラーの勤務最終日も,彼女が遅くまで残っていることに気づかなかった。つまり彼女も精神科医の妻も,出産や子育てが原因で仕事を辞めたのではなく,環境によって仕事を辞めることを強いられたのである。それに気づくことなく,精神科医は「普通の40代男性」よりも女性の事情に理解があると自認している。
 この精神科医という登場人物によって,世の男性は,自分が小説で皮肉にされるような立場にあること――女性の立場に無自覚な存在だということを自覚する。精神科医は,男性を啓蒙する役割を担わされていることが分かる。

3. 結論

 ジヨンは1982年周辺の世代を代表する役割を持っている。ジヨンに「憑依」しているのは,ジヨンと似た境遇を持つ女性たちである。この「症状」は,男性がその他の性を疎外する社会の構造が引き起こしている。精神科医は,この構造に無自覚な男性たちを啓蒙する役割を担っている。