現実が襲い来る!
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いつものように飲み会を抜け出した後、その日はなにを思ったのか、たぶん喉が渇いたのがおもな要因だと思うが、店を出てすぐの場所にある自動販売機でコーヒーを買った。
「おい」
声をかけられて振り返ると、そこには自販機の青白い光に照らされた、職場の先輩がいた。
「あー、……」
そこで気づいたのだが、どうやら自分がコーヒーを買ったのには、誰かに呼び止められることを期待していた面があるようだった。
「なんだその返事は」
そう言って先輩は、おかしな奴だ、というふうに笑った。
「先輩こそなにやってるんですか」
自分で言っておきながら、今の発言は話の流れから飛躍しているな、と思った。まあ会話なんてそんなものだろう。気にするな。そう自分を納得させる。この一連の流れを毎回脳内で繰り返すのが億劫で、いつからか、おそらく中学生頃からだと思うが、僕は人との会話を避けるようになった。
「……さあ?」
そう言って先輩は遠くの方に目をやった。暖色系の光がやかましくちらつく、典型的な飲み屋街がそこにはあった。
「――なーにやってんだろうな」
虚空に投げるように、ぽつん、と先輩は呟いた。
「あー、そういう気分だったんですね。わかります」
僕はしれっと言った。
先輩は一瞬なにか言いかけて、その言葉を飲み込み、しばらくして我に返り、安堵したような様子を見せ、それからやはり少し感傷に浸った様子で、僕に言った。
「……ちょっと飲みにいかねぇ?」
「えーこれからですか」
「いいじゃんかよ、ああ、確かお前明日休みだろ」
「なに人の予定把握してるんすか、きもっ」
「そんなつれないこと言うなよ、俺とお前の仲だろ」
そういう気分になったときだけ利用し、利用される仲、っていうことですか、と言おうとしたがやめた。それに自分としても、その提案はまんざらではなかった。
「なんでいつも飲み会途中離脱すんの?」
開口一番、先輩はそう言った。僕は一瞬ギョッとしたが、先輩の様子を伺うと、どうやら、やはり単にそういう気分なだけな気がしたので、こちらも遠慮なくそれに合わせた。
「僕めんどくさい奴じゃないですか」
「うん」
「……否定してくださいよ。……で、その『めんどくささ』っていうのは、絶賛自分にも適用されるんです」
「ほう」
「人と話しているといろいろ余計なことを考えてしまうんです。で、それがめんどくさくて、離脱」
「なるほど、でもそれだったら端っこでちびちび飲んでたら済むんじゃね?」
「僕ね、病弱なんですよ」
「病弱」
「そう。……頭の方ですけど」
「はぁ」
「僕の頭おかしいんですよ、きちんと身体を休めてあげないと、翌日にはバグるんです」
「なるほど」
「朝起きたら何も処理できなくなる。かろうじて空腹と排泄だけ感知できるんですけど、それらと布団から出ることのどちらが大切かを天秤にかける、ってレベルのことが続くんです。まあ僕は常識人なので、限界が来たら前者が勝つんですけど」
「なんか悪いね、こうして付き合ってもらって」
先輩は全然申し訳なくなさそうにそう言った。僕は呆れて、その感情が顔に出ないように注意し、次に感情自体を飲み込み、それからしばらく自分がなぜ先輩に付き合っているのかを考えて、ふと、
「……コーヒー」
「コーヒー」
「買ったんです。さっき先輩が声をかけたとき」
「あー、買ってたね」
「あれまだ飲んでないんですよ」
「買ったのって温かいほう? 冷たいほう?」
「温かいほうです」
「ああ、それじゃあ冷めちゃったね」
「いいんです。彼は道中、僕の手を温めてくれました」
「それはナイスな仕事をしたね、彼」
「130円払った甲斐がありました。繁華街の自販機値段高すぎだろ足元見やがって」
はは、と先輩が笑った。愛想笑い死ねよ、と僕は思った。
「おまえ彼女いる?」
先輩は彼の貧困な脳内の代表選手みたいな質問をした。
「『彼氏』かもしれないし、アセクシャルかもしれないじゃないですか」
「ちょっ、俺はやめてよ」
「いいじゃないですか、俺とお前の仲だろ」
「えーやめてよ、俺ほんとそういうの無理だから」
先輩はほんの少しまじめなトーンでそう言った。当の僕はと言えばさっきの発言の「アセクシャル」要素が会話の流れに組み込まれていないな、などと考えていた。先輩のことだからアセクシャルの意味が分からなかったのかもしれないと思った。
「先輩は彼女いるんですか」
「別れた」
「はあ」
なるほど先輩がそういう気分だったのは、そういうことだったんだな、と思った。
「聞きたい?」
「聞きたいか聞きたくないかで言えば、『どうでもいい』ですね」
「聞きたくないんじゃん」
「否定と無関心は違うんですよ」
「はあ」
「主張も否定もその事柄に一家言ある人がするものです。僕はまずその議論の土俵に立っていない」
「ホモだから」
「ホモじゃないです。ゲイです。僕はゲイじゃないですけど」
「よかった、俺、襲われるかと思った」
「先輩は好きな人を襲うんですか」
「俺は襲わないよ、常識人だし」
「それと同様に、ゲイも大多数は人のことを襲わないんじゃないですかね」
「なんの話だっけ」
「先輩のクソしょーもない惚気話です」
「惚気てねーよ、別れたんだから」
「で、どんな人なんです、聞いてあげますよ」
「恐悦至極に存じます。でもおまえも聞いてて面白い話だと思うんだよな。あ、でも誰にも言うなよ、まあ誰にも言わないと思うけど」
「その先輩のクソみたいな認識を崩壊させるためだけに、明日から友達作りに励もうと心に決めました。まあ明日には忘れてるんですけど」
「ほんと助かる。で、なんと、俺の元カノというのが、お前の同期の××」
「なんですかその昼ドラみたいな展開、ちょっと面白くなってきましたね」
「昼ドラ見たことあるの」
「ありますよ、高校生の時の模擬試験で朝起きられずに、親共働きなんで家で一人で、パジャマ着たままカップラーメンすすりながら見ました。意外と面白かったです。脳内空っぽにして現実逃避するにはぴったりでした」
「おまえよく社会に出てこれたな」
「まあ人類9割9分バカですからね。で、昼ドラの続きは」
「昼ドラじゃないから。××がね、会社の人に俺らの関係をバラしたいって言いだしたわけ」
「はあ、だんだんつまんなくなってきました」
「我慢して聞いてよ。俺は先輩って立場上断ったんだけど、そしたら別れるって」
「それで別れたんですか、へー」
「飽きるな飽きるな。何とか説得しようと思って、実際説得して、その日は終わったわけよ」
「はあ」
「そしたら次の日、彼女の荷物がきれいさっぱりなくなってたわけ」
「ん? 同棲してたんですか?」
「そう。おまえは実家暮らし?」
「一人暮らしですが。ボロアパートの。それで?」
「会社で会ってもスルーされるし。どうしたものかと思いましてね」
「それ僕に聞きます?」
「いやなんかこう、哲学的なアイデアをくれるんじゃないかと思って」
「バカにしてますよね」
「うーん。どうかな??」
「この前調べたんですけど日本における男性の生涯未婚率って約25%なんですって」
「へえ」
「女性は約15%です。あ、この前調べたといっても僕が調査したわけじゃないですよ」
「大丈夫そこはわかってる」
「単純に男女の人口構成比率で考えたら10%も差が出るわけがないんですよ。ということは何らかの要因で、既婚男性と初婚女性が結ばれるケースが多いってことです。『何らかの要因』についてはさまざまな考えがあると思うんですけど、事実として既婚男性と初婚女性が結ばれる割合は多い」
「はあ」
「これをカップルの単位に敷衍してみます。するとどうです、経験豊富な男性が好まれる傾向があるように思えませんか」
「それはそう」
「だから先輩も、この苦い経験はムダではなく、むしろより多くの女性に振り向いてもらえる可能性が広がったってことです」
「はあ……そうなのかな??」
「そうです。例えばここに円錐と球があるとするじゃないですか」
「円錐と球」
「球を円錐の頂点に乗せたときはどの方向に転がるかわからない。しかし手を離した瞬間にそれは決定するんです。人生も同じなんです」
「人生」
「人生です。一度『モテ』方向に転がった球は、多くの場合、坂道を逆行して『非モテ』へと転がることはありません。逆もしかりです。人は生まれながらにしてエネルギー的に不安定でありそれゆえに無限の可能性を秘めています。大人になっていくというのは、おのおのが、おのおのの身の丈をわきまえていく過程、すなわちエネルギー的に安定するところを見つけていくということです。自発的対称性の破れです」
「そうです。そして先輩という球は『モテ』へと転がることが観察されています。よかったですね」
「なんか煙に巻かれた気がするけどありがとう」
「いえいえ、雑語りは哲学の真骨頂ですから」
「哲学関係者に謝りなさい」
「嫌ですよ、そんなことしたら僕の人生は全て謝罪に費やされてしまう」
「もうなんて言ったらいいかわからないわ」
先輩と別れてボロアパートに向かった。飲み屋街を抜けると静寂に包まれた。
「寒っ。寒いなぁ」
わざとらしくそう呟いて、両手を前で交差させてみた。それでコーヒーのことを思い出した。飲んでみると、やはり冷え切っていて不味かった。しばらくするとカフェインの作用か身体が震えてきた。
「寒……」
なんてみじめなんだろうと思った。おまけに雨まで降りだしてきた。
「うわあ、なになに、傘とか持ってきてないんですけど」
今日は口が良く回るなあと思いながら走って家に帰った。当然のように誰もいなかった。誰もいないものだなあと感心した。布団を敷きっぱなしにしているベッドに倒れこむと、すべてがどうでもいいように思えた。惰性でスマホを取り出してクソつまんないツイッターのクソつまんないTLを眺めた。クソつまんなかった。はぁぁ、とわざとらしくため息をついてスマホを投げ出したところ、思いのほか勢いがついて布団から落ちてしまった。
「だっる……」
スマホを拾う気力はなかった。もう一度、今度はふぅぅ、とため息をつくと、腹が苦しかった。おっさんかよ、おっさんだよ、25のおっさん、と思いながらベルトを緩めた。雨のせいで節々が痛んだ。「私たちは晴れよりも曇りや雨の方が似合うね」と言った女のことを思い出した。知るかよ決めつけてんじゃねえよ。頭が痛くなってきた。「気圧が低いからかな」と奴は言った。言い訳ばかりうまい女だった。「私も頭が痛くなる」と奴は言った。矛盾してんだよ。曇りや雨の方が似合うんじゃなかったのかよ。
窓から青白い光が漏れていた。それが部屋を微かに照らしていた。カーテンを閉めていなかったなと思った。カーテンってなんの意味があるんだろうと思った。ああ、部屋の電気をつけたときに外から見えないようにするためか、あるいは光を遮断することによって安眠を促すためか、と思った。今の自分にはどちらも必要ないなと思った。捨てたいと思った。カーテンを捨てたい。奴はこの部屋で何の意味も持たない。捨てたい。
歯を磨いていないなあと思った。お風呂にも入っていない。服の洗濯は明日でもいいかもしれない。でもにおいが付く気がして自分は嫌だった。これは潔癖症なのだろうか。それとも不潔の部類なのだろうか。服の溜め置きって普通の人はどれくらいしているものなのだろうか。ググりたい。ああ、スマホがないんだった。はぁぁ。
明日は休みだから布団のシーツを変えたいと思った。今こうして汚いものがベッドに乗っている以上それは必須事項だった。明日は起きられるだろうか。このまま寝たら明日の朝、自分の不潔度合いに耐えかねて起きざるを得ないかもしれないと思った。それは戦略的にアリだなと思った。問題は今晩、不潔さよりも睡眠欲のほうが上回るかだった。疲労度合いの関数だなと思った。 f (疲労度) = 睡眠欲 。ただし疲労度は実数で0以上とする。そんなことはどうでもいいから結論はなんなんだよ。
さっき投げたスマホは電源を切っていただろうかと思った。切っていないかもしれないと思った。時間が経つとこちらの意思に反して勝手に消えるのが嫌いなので、スリープモードの類は決まってオフにしていた。電源を切っていなかった場合、かわいそうに奴はムダな電力をすり減らして最後には命尽きてしまう。それは人道的にどうなのだろうと思った。脳内の人権活動家がやかましかった。スマホを拾おうと思った。ただしバッテリー消耗の観点から。人権活動家に上っ面のほほえみを見せつつ。人権ってなんだよ。スマホだろ。
起き上がると全身が悲鳴を上げた。歯をアホほど噛みしめてそれをごまかした。スマホの電源はついていなかった。よかった、ムダな電力消費はなかったんですね……。脳内の偽善家がそう呟いた。実務は全くこなせないくせにやかましい脳だと思った。拾おうとすると腰や膝が曲がらなかった。あー、きっついなー、これ、と思った。使えない脳は30、40年後のことを考えていた。今は歯を食いしばるだけでなんとか耐えているけれど、年を取ったらごまかしが効かなくなるのだろうなと思った。この痛みに年がら年中耐えるくらいなら餓死を選ぶなと思った。すでに今そうしたい気分だった。スマホを拾うのをやめてこのままベッドに寄りかかったらそのまま死を迎える自信があった。そしてそれもいいかもしれないと思った。ノイズにまみれたこのクソみたいな頭ともおさらばできる。孤独死は後処理が大変なんだよなと思った。虫がたかるし跡も残る。床に跡を残さないためにはベッドやソファの上で死ぬのがいいらしい。なんでそこまで気を使わなきゃいけねえんだよ。こちとら死んでんだぞ。死んでないけど。少なくとも今はベッドに寄りかかることは可能でもベッドに上り詰めることはできないなと思った。そしてそれらに係る面倒くささを取ることよりも、まずはスマホを拾って身体を徐々に動かし、アドレナリンを放出して痛みを緩和する方が賢明だと思った。ゴミカスみたいな世間一般常識である結婚至上主義にも一定の理があるなと思った。少なくとも二人いれば一人は助けを呼べる精神・身体状態にあるだろうなと思った。確率の積の法則は強力だ。例えば50%の確率も2つで25%にしてしまう。そこまで考えてやはりゴミカスはゴミカスだなと思った。そんなふうにお互いに労働を強いる結婚は束縛でしかない。自分は賢明で良心ある人間として老人ホームに入ろうと思った。
稼がなければならないと思った。老人ホームに入るだけの費用を捻出できる程度に。奨学金を返さなければならない。娯楽はいま同様ツイッターや、オンラインの漫画の無料部分で十分に事足りる。ビバ経済大国。
スマホを拾うと連鎖的に多くのタスクがこなせた。スマホを充電ケーブルにつないだ。カーテンを閉めた。よたよたと洗面所にたどり着いた。服を洗濯機に放り込み、洗剤を入れて回した。鏡を見ると情けなくやせ細った自分の姿があった。髪をかき上げてそれをまじまじと見つめた。心なしか額の左右の頂角部分が薄くなっている気がした。将来はM字ハゲかもしれないと思った。